2005.2.13 「『マイ・フェア・レディー』に見る人材育成のあり方」



「マイ・フェア・レディー」という映画があります。元々はミュージカルらしいのですが、大昔、私が学部生で、教育心理学の講義をとっていたときに聴いた話が頭に残っていて、最近、初めて見てみました。

話の舞台は20世紀初頭のイギリスです。言語学者のヒギンズ教授は、労働者階級と有産階級の間に言葉の相違があることが、階級間の移動を妨げており、労働者階級がよりよい暮らしをすることができないということに腹を立てていました。そんな折に労働者階級の汚い言葉をしゃべるイライザという花売りの娘に出会い、彼女に教育を与え、言葉を矯正することで、バッキンガム宮殿のパーティーに連れていったときに、果たして労働者階級の娘とばれずに通せるかを、同じく言語学の大家であるピカリング大佐と賭けることにします。血のにじむ努力の末、バッキンガム宮殿でのパーティーで、イライザの言葉はあまりに流麗で英国人の貴族どころか、ハンガリー王家の王女であるとまで言われます。その夜、ヒギンズ教授はピカリング大佐と喜びを分かち合います。そのような中で、イライザは自分がその喜びの輪の中に入れないことに苛立ちを感じヒギンズの元を飛び出してしまいます。ヒギンズはイライザがいなくなり、はじめて彼女の存在が自分の中で大きくなっていたことを知ります。そして、ヒギンズの母親の家に逗留しているイライザに会いに来ます。そんなヒギンズにイライザは次のように言います。

「紳士・淑女のなんたるかは大佐(ピカリング大佐)に学びました。彼は私を花売りの娘以上のものとして扱いました。レディーと花売り娘の違いは、どう振舞うかではなく、どう扱われるかです。私を花売り娘として扱う教授(ヒギンズ教授)には、私は永久に花売りの娘、レディーとして扱う大佐の前ではレディーになることができます」

どう振舞うかではなく、どう扱われるかという視点は、現在の博士課程であったり、ポスドクの就労問題においてもとても重要な視点であるのではないかと思います。

現在、博士の就労問題は、厄介な問題であり、どちらかというと社会の重荷という視点が支配的なのではないかと思います。例えば、日本国の研究・不安との訣別/再生のカルテ「科学/技術系若手研究者の不安」においては、とてもよくポスドクの現状とポスドクやポスドクをみる大学院生の意識を活写されていると思うのですが、この文章の根底に流れるものには、ポスドク問題を社会問題としてとらえるだけで、社会として解決すべき問題であるということで締めくくっており、今後の解決において、最近のトレンドを述べるにとどめており、正直なところ希望の見出されるものとはなってはおりません。

「博士課程」や「ポスドク」の現在のあり方をありのままに受け入れるという姿勢は、果たして正しいのだろうかと思います。「マイ・フェア・レディー」において、イライザの汚いしゃべり方をありのままに受け入れて、それを仕方のないものとし、労働者階級が搾取されているという現状について、彼らを守るために社会保障制度を充実させる必要があると述べているのと同じなのではないかと思います。ここには何も希望が感じられません。

今、ポスドクや博士課程に必要なことは、ありのままの姿を受け入れることではなく、彼らを将来受け入れるかもしれない人々が、彼らがどうなることを期待しているのかを示し、彼らにそのようになるようにトレーニングを与えることであると思います。

周囲から認められ、さまざまに期待されることにより、はじめて、「博士」という称号が輝きに満ちたものになり、「ポスドク」というキャリアが誇りうるものとなるのではないかと思います。私はそのための活動を少しずつですが、これからも続けていこうと思っています。




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