シンクタンクにおける人文・社会系の博士

シンクタンク勤務 坂本 慎一さん


人文・社会系の学問を専攻した人が企業に就職する道として、シンクタンクが考えられます。私は大学院で経済学の博士号を取得の後、数年の就職活動期間を経て、現在はシンクタンクに勤務しております。これらの活動や仕事を通じて自分なりに得た知識や経験をもとに、これからシンクタンクを目指す大学院生の方々に参考になればと思い、以下の文章を書きました。最新の詳しい情勢は『シンクタンク年報』などで確認できると思いますので、ここでは主に私の実感に基づく話をしたいと思います。

 
  1. シンクタンクの現状

    シンクタンクは日本におよそ300あります。公益法人の形態によるものもあれば、一般企業として研究を行っているところもあります。大多数は研究員が20人以下の小規模なものと考えて良いようです。もっとも、大学に比べて興廃が激しいので数年の後には情勢は大きく変わっているかも知れません。

    経済学の場合は、金融機関系のものが規模も大きいので存在感があります。また、実業家などが個人的に設立した研究機関もあり、私が勤務している会社はこの形態です。日本のシンクタンクは特定の企業や企業集団、行政機関や地方公共団体のバックアップによるものが多いと言われています。

    仕事内容はシンクタンクによって様々ですが、極端に単純化すれば、執筆か講演の仕事がほとんどと考えてよいと思います。執筆する媒体は母体となる組織へのレポートや社会への提言レポートなど様々です。しかし、「研究所」というのは全くの名ばかりで、事実上研究を全然行っていないところもあります。この場合は、かつてその職場にいた人に聞くか自分で職場を訪問しない限り、なかなか分らないと思います。残念ながら、学問に対して全く理解がないところもありますので、職場選びには注意が必要です。

    聞くところによると、金融機関系のシンクタンクは、昨今の不況で縮小志向です。これらのシンクタンクは、調査部門が独立していった経緯を持つ場合が多いので、母体となる会社の業績に大きく左右されます。また行政関係のシンクタンクも、仕事の発注者は地方自治体などがほとんどなので、昨今の緊縮財政で苦しい状況にあるようです。やはり最初から研究所として出発した独立系の組織のほうが、外部的な条件に左右されずに研究活動を重んじると思います。あくまでシンクタンカーとして仕事をしてゆくのであれば、安定した職場を求めたいものです。

    またシンクタンカーは、大学の教員とは異なる扱いを受けることがしばしばあります。学会などで初見の人に研究者として見てもらえないことがあったり、大学図書館の利用に不便を感じたりすることもあります。この辺りは、世間がシンクタンクに理解を示すように、シンクタンカーが声をあげてゆくべきだと思います。もっとも、シンクタンクの方が大学よりも政策や企業経営の現場に近いので、理解のある大学の先生なら一目おいている場合もあります。基本的に大学よりもシンクタンクの方が、社会の様々な情報を得ることに適していると言えるでしょう。

  2. 大学院や学位との関係

    シンクタンクで修士号や博士号をもって勤務している人は、学部卒で入社した後に大学院へ入学して学位をとった人が多いと思います。修学の際には、通常の給料とは別に学費も会社に負担してもらって大学院に通うことが多いようです。学位をとってから入社する場合でも、修士はありますが、博士号を先にとるケースはかなり稀です。

    シンクタンクの研究員は、日本全国で7千人ほどいます。しかし、多くのシンクタンクでは一般公募を行なっていませんし、公募を行なっているところでも数年に一度募集するところが多いと思います。また人文・社会系の博士はもともと少ないため、博士を応募条件にしているところはまずありません。もし応募するのなら「修士が望ましい」という条件でも、博士は応募するべきです。ただ、一般的な傾向として、シンクタンクは大学院の学位よりも、職歴や個人の資質などの付加価値を求めることが多いと思います。

    しかし絶対数が少ないという以外にも、シンクタンクに博士が少ない理由はあるようです。企業が社員を大学院に通わせる場合、これは会社にとって「投資」になります。しかし実際には学位を取得してすぐに大学へ移ってしまう人も少なくありません。かなり確信犯的にシンクタンクを「腰掛け」として利用する人もいます。この場合、会社としては裏切られた形になり、ますます博士に対する不信感を増す結果となります。シンクタンクによる「博士アレルギー」の一部は、こうした先輩たちの行為によるものと考えてよいと思います。もしシンクタンクに勤務する場合は、後輩のことも考えて、会社に迷惑をかけないようにすることも大切です。

  3. 大学院における専攻

    現在のところ、シンクタンクが新卒の博士課程修了者を採用することはほとんどありません。しかし志願者がいなければ、採用もありえませんので、シンクタンク向けの専攻としてどのようなことが特徴として言えるか考えてみる必要はあります。

    まず、シンクタンカーは講演するのでなければ書く仕事が多いので、この道を目指す人はとにかく書くことが得意な人であることが必須の条件だと思います。文系であっても、本を読むのは好きだが書くのは苦手という人が時々います。主に一次資料を扱う「技術屋」のような人にこの傾向は強いようです。こういう人は日記などを書いて、とにかく執筆の訓練を積むことが大切だと思います。筆が早いということは、シンクタンクでも大いに喜ばれます。

    第二に、専攻は学際的であることが望ましいと思います。シンクタンクの現場では、学問の枠にとらわれない幅広い知識が要求されます。例えばカント哲学が専攻でカントの本は全て知っているとしても、『論語』や空海を全く知らないという人はシンクタンクに不向きです。思想の研究ならば、古今東西ほとんどのめぼしい思想家について知見を広げる必要があります。実際の仕事でも、何を要求されるかわからないことが多いです。幅広く知っていて、損をすることは絶対にありません。

    第三に、シンクタンクでの仕事の特徴として、意外に思われるかもしれませんが、英語や統計の知識は重要ではありません。大学院の入試では専攻に関係なく語学の試験が課されますが、シンクタンクにおいては、外国語は必ずしも重要ではないと思います。もちろん外交や貿易関係の研究所では必須でしょうが、ほとんどのシンクタンクは日本人相手に日本で仕事をしているので、総じてアカデミズムよりは外国語を使う機会が少ないと思います。また、経済学に関して言えば、シンクタンクと言えばとかく統計を駆使してデータ集計を行う印象をもっている人が多いようですが、それほど高度な統計テクニックを使うことはありません。むしろ統計の知識自体は学部卒の研究員でも理解できる程度のものなので、統計を使いこなす社会科学的センス(現場や歴史に詳しいことなど)のほうがはるかに大切だと思います。

  4. まとめに代えて雑感

    人文・社会系の専攻者がシンクタンクの勤務を目指すことは、現在のところあまり現実的な路線とは言いがたいと思います。私の場合は、一般社会に役に立つことを目指して研究を行ってきましたが、私の研究を欲しいと思うシンクタンクが存在するか、最初の段階では全く考えていませんでした。実際に就職活動を始めてから一般企業も視野に入れ始めたくらいなので、決して計画的ではありませんでした。

    企業の就職活動を通じて最も印象的だったことは、博士に対する一般社会の偏見が予想以上に厳しかったことです。博士はどこでも好きなところに転職できるからすぐに辞めてしまうとか、人間的に救いがたい欠陥があるとか、最初から決めてかかっている人に何度も出会いました。多くの企業にとって、博士はほとんど想定外の人材であり、仮に雇ったとしてもどのように扱うべきなのか良く分らないようです。

    理工系の博士の場合は既に労働市場が整備されているので、商品(博士自身)に魅力があれば売れる(就職できる)状態だと思います。人文・社会系の場合、研究職の絶対数が少なく、博士の労働市場がほとんど存在しません。少し経済学的な言い方をすれば、市場が発生するためにはコストがかかります。人文・社会系の博士の場合、このコストは自己負担となります。つまり、自分が研究者として優秀だと証明するだけではなく、そもそも博士号取得者を雇うことが組織にとってプラスになるということから説得しなければならないので、手間と労力がその分多くかかるのです。

    人文・社会系の博士の労働市場を充実させるためには、その市場発生コストを政府などの公的機関やNPOなどが負担することが望ましいと思います。様々な機関が、社会における人材の有効活用をいろいろな形で促してゆくことが大切でしょう。