生還

名前:Sooongさん 

所属:国立大学助手(関東)


私は8年前に某大学の工学系の博士課程を修了し、今は関東地方にある某国立大学で助手をしています。私の大学院生時代の経験、当時考えたことを長くなりますがお話させていただきます。

M1の時には「博士には行かずに絶対に就職する!」と周囲に宣言していました。自分で言うのもなんですが、私は同級生たちの中でも一番できました。だから、同級生たちは私が博士に行くんじゃないかと思っていたようです。しかし、当時研究室に在籍していた博士課程の先輩たちは、私には全く魅力的に見えませんでした。彼らは、教授の持っている大きなプロジェクトの末端の課題を博士論文の研究テーマとして担当させられていました。私にとっては、それらのテーマは実用性に重きを置きすぎていて学問的な魅力が薄い研究テーマに思えました。そして、その博士課程の先輩たちはみんなお金に苦労しているようで、アルバイトと学業との両立で疲れきっていました。そんな彼らのようになりたくないと思ったのは当然のことです。

私もM1の冬から同級生たちと一緒に就職活動を始めました。バブルがはじけたと言われ始めたばかりの頃で、企業の採用にもまだまだ余裕があった時代でした。有名企業からの学校推薦の話もたくさんあり、それに応募すればほぼ自動的に内定が出た、そんなのんびりした時代でした。しかし、同級生たちが次々に学校推薦で内定を決めていく中、私はどこにも決めきれずにいました。「自分はお勉強はできるかもしれないが、精神的に弱いから大企業のサラリーマンなど無理なんじゃないだろうか」、いくつもの大企業の説明会に行くたびにその思いは強くなっていったのです。

そんな風に悩んでいるうちに、M2のゴールデンウィークを迎えてしまいました。大企業の学校推薦はこの時期で終わってしまいます。残りは、中堅企業、別業種の一般応募、公務員しかありません。「公務員なら自分でもできるのでは」と思い、ある人に相談したところ「民間企業はきついけど公務員なら楽、なんて考えてるならその考え方は大変失礼だ。何をやりたいのか、もう少し真面目に考えなさい」ときついことを言われ、精神的に打ちのめされてしまいました。よくよく考えたら、私にはやりたいことなんて何もないじゃないか? トリムさんの言葉を借りれば「自分の実力のなさを認めたくないというプライドを守」ろうとしていただけでした。その後、中堅企業の研究所や別業種をまわりましたが、そんな思いを抱えながら面接の場でちゃんと自己PRなどできるはずがありません。回を重ねるごとに惨めになるばかりでした。当然、いつまでたっても就職は決められず、また決められる見込みもなく、そんな状態では研究にも手がつきません。M2の7月末、見るに見かねた指導教官が「博士課程に進学しないか、君なら大丈夫だろうから」と勧めてくれました。両親には「就職しないだなんて贅沢なこといいやがって、もう仕送りはしないから勝手にしろ」と見捨てられてしまいましたが、当時の私にとってはもう博士進学しか道は残されていなかったのです。

しかしながら、博士課程への進学を決めることで私の気分がすっきりしたわけではありませんでした。博士への進学はM1の時に最も嫌っていた選択肢なのですから。当時、修士論文の研究テーマとして与えられた課題にも深い興味を持てずにいました。修士で卒業してしまうならそれでも構わなかったのでしょうが、博士課程に進学するとなるとその研究を継続してやっていかなければなりません。M2の冬、修論から解放されて晴れ晴れとした表情の同級生を見て、私は「自分はまだまだこれを続けなければいけないんだ」と暗い気持ちになったものでした。

博士課程の学生としての生活が始まってからは、もっともっと苦しい思いをすることになりました。博士進学と同時に実家からの仕送りが打ち切られ、その分のお金を稼ぐため塾講師のバイトを始めました。人前で話すのが苦手な私にはつらかったですが、これはじきに慣れました。日々のバイトと研究の両立は肉体的にもきつかったですが、それよりも時折「俺は一体毎日何をやってるんだ? 同級生たちは社会に出て給料をもらって一人前になっているっていうのに、俺は机に向かって何の役に立つわけでもないお勉強をしてるだけじゃないか」と思ってしまうことの方が精神的に辛かったです。

D1の前半はバイト生活に慣れるのに必死でしたから、悩む暇もそれほどなかったかもしれません。しかし、少し余裕ができてきたD1の後半になると「俺は何をやってるんだ? 本当は何をやりたいんだ? 俺は本当は研究なんかやりたくないんじゃないか?」という悩みで頭が一杯になって研究に手がつかなくなることが多くなりました。元々、研究に興味があって博士に進学したわけではなかったのですから、当然のことでした。周囲にこんなことを相談できる人もおらず、かなりためらいましたが勇気を奮って大学の保健センターの精神科に相談に行きました。結局、D3の始めまで月2回のカウンセリングに通いました。このカウンセリング、振り返ってみてあまり役に立った気はしないのですが、自殺してしまうところまで追い詰められずに済んだのはこのカウンセリングのおかげかもしれません。

D1の間の研究は、大きな成果は出ないものの、最低限の成果だけは出し続けるという状態でした。指導教官があまりきつい人物でなかったのが幸いでした。打ち合わせのたびに彼が要求する成果は、私が数日集中すればどうにかなる程度のものだったからです。D1の間には卒論生一人の指導を任されましたが、その卒論生と馬鹿話をしながら実験をするのは大いに気分が紛れました。結局、D1の間に私がやった研究はその卒論生の卒論に関わるものだけでした。

D2になって、私は「国家1種を受験して公務員になれないか?」と考えました。去年1年の自身の研究成果を考えればこの先研究者としてやっていくのは到底無理で、どうにか博士課程を中退して就職する手はないか、と考えて国家1種受験を思いついたのです。地方公務員試験も検討しましたが、年齢的に不可のものも多かったですし、私がいろいろと調べた限りD1で中退して地方公務員というケースはあるもののD2以上のケースは皆無だったです。民間企業への就職ならば指導教官への相談が不可欠でしょうが、私には「博士を中退して就職したい」とはとても言い出せませんでした。私の押しの弱さでは指導教官に説得されて中退を諦める羽目になるのは目に見えていたからです。独力で国家公務員に内定を得てからなら、指導教官に切り出す勇気も出るのではと考えたのです。結局、試験には合格、官庁訪問もしましたが、博士課程中退見込みの中途半端な奴などお呼びでない、とばかりに軽くあしらわれて、活動は失敗に終わってしまいました。

D2の前半は公務員試験に気をとられてていて、研究もごくわずかな成果が出せているに過ぎませんでした。自分の研究が大きなプロジェクトと関わるものではなかったため、指導教官から研究成果を急かされることがなかったのが幸いでした。D2の後半になって、新たな卒論生の指導が本格化しました。この時に私が指導を任された卒論生がとんでもなく優秀な奴で、ある日、彼は私の作った解析プログラムに根本的な誤りがあることを指摘したのです。このことが直接的なきっかけとなって、私は2ヶ月近く半ひきこもり状態になってしまいました。アルバイト先とアパートを往復するだけで、研究室には週一度くらいしか顔を出せなくなってしまったのです。この時期が、博士課程の間で最も精神的にきつい時期でした。「公務員の就職も果たせなかった、自分にはやりたいこともやれることも 何もない」と落ち込み、精神医学や心理学の本を読み耽って無為に日々を過ごしていました。週一度だけでも顔を出していたので、さほど研究室でも私のことは心配していなかったようで、結局その卒論生の卒論も問題なく仕上がりました。そして、D2の間に私がやった研究は、昨年度の卒論を少しだけ発展させるための成果を出したこととその年度の卒論くらいでした。どう考えても、あと一年でまともな学位論文になるとは思えませんでした。

D2の1月、私は意を決して指導教官に就職先の紹介をお願いすることにしました。もはや博士中退という時期でもありませんし、D3が終わってからの就職の話をしてもいい時期だろうと思ったのです。ある日の打ち合わせが終わってから「先生、D3 が終わってからのことなのですが...」と切り出したところ、「それについては考えがあるから心配しないでいい、今は研究に集中しなさい」と言われました。その意味深だが希望を持たせる台詞は、私の落ち込んだ気分を少し回復させてくれました。そして、D2の3月に指導教官より「○○大学の△△先生から、君が来年3月末に博士をとれるならば4月1日付けで助手として迎えたいという話があるがどうするか」と、(任期付きでない)助手のポストを打診されました。今の研究の進み具合を考えると、あと一年で論文を仕上げられる自信はなかったのですが、この宙ぶらりんの状態から抜け出せる可能性を目の前にしたら「お話を進めてくださるようお願いします」と答えるより他にありませんでした。

この就職話をきっかけとして、私はようやくまともに研究に取り掛かれる気持ちになりました。その時点においてさえ、自身が取り組んでいる研究テーマについて「別にこんなテーマ興味ないんだけどなあ」との思いはありましたが、就職がかかっているのだから何が何でも学位論文として形にしなければならないとの義務感だけで取り組んでいました。D3 の前半の間にそれまでやってきた研究をようやく2 本の論文としてまとめ、幸運にもうち1本は早々に採用となり、学位論文を提出できる最低条件を整えることができました。結果的に、私はD3の年度末に学位を得て修了し、4月から現在のポストに着くことができました。今振り返れば、私の学位論文は修士論文レベルの研究2つを無理やりくっつけただけで、学位論文の水準に達しているとは思えない出来でしたが、査読付き論文一本という(当時の)最低条件を満足していることと、採用予定大学での人事が進んでいることなどを勘案して(大目に見て)学位を出してくれたのではないかと想像しています。

その後も、私の学生時代の不勉強さとくよくよ思い悩みやすい性格の故に、必ずしも順風満帆な研究者生活とはいっていません。しかし、研究生やポスドクなどの不安定な身分を経ずに大学に職を得ることができたのですから、私は十分幸運でした。しかしながら、指導教官に依存して希望する進路が決まったり決まらなかったりというのは、博士課程の学生だった当時を振り返ればあまりに危険が大きかったと思わざるを得ません。こんな冒険は誰にでも勧められることではありません。研究を続けることに興味を持っていた私の周囲の先輩後輩たちの多くは、博士課程進学という選択をせずに、民間企業(の研究所)に就職する選択をしました。彼らは「博士に進んだらその先の進路が不透明、大学は民間に比べると実験設備が貧弱、企業でも論文博士は取れる」という風に考えていたようです。現在では、事情が多少変わってきている面もありますが、この考え方は今でもだいたいあてはまると思います。

以下は私見ですが、最近では民間企業→大学教員というケースも増えていますし、工学系の場合には教員の採用に際して民間企業での経験を積極的に評価するケースも(いろいろな公募条件を見る限り)増えてきていますから、大学教員になりたいという人にとっては修士卒で企業で研究を続けながら(論文博士や博士課程への社会人入学などで)学位を取得して大学のポストを探るのというのが最も賢明で現実的な方法かもしれません。



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