漂流研究記

名前:Tさん 

所属:国立大学博士課程理系・D2(甲信越)


博士過程のことを述べる前に学部のことを少し述べようと思います。私は高校生のころからエネルギーに関心があり学部はエネルギーに関連した原子力を専攻しました。興味があることを勉強していたのでそれなりに学問を修めることができ、いよいよ卒論に取り組む時期にさしかかりました。しかしながらその頃、原子力に対して強い不信感がありました。もんじゅの事故からではなく、放射性廃棄物に対する国の政策に失望していました。原子力は将来のエネルギーとして見直さなければならないと感じました。そこで原子力に変わるエネルギー源がないか探していました。核融合に興味を持ち調べだしたのはこの頃でした。図書館で核融合、プラズマ関連の本を読みあさっていました。そしてプラズマで物を作れることを知りプラズマのすばらしさに驚嘆しました。次第にプラズマに関わる研究がしたくなりました。幸運なことに某国立大学でプラズマの研究に携わる機会を教授より頂きました。私立出身で国立大学の研究施設で研究できたことは私の人生で大きなチャンスでした。某国立大学のスタッフ、研究施設は大変すばらしく感銘を受けました。そこではプラズマの研究者は1人ずつ実験装置が任せられたので私も実験装置を独占して使うことができました。研究内容はプラズマを用いて薄膜を合成することでした。実験はとても楽しかったです。何が楽しかったと言えば、プラズマの光を見ることでした。Arをプラズマにより励起した光は非常に美しく、その輝きを眺めているだけで楽しかったです。研究成果はとても人に言えるほど内容ではありませんが、私にとってとても楽しかった1年間でありました。

私は修士課程に進学し、プラズマの研究をすること希望していました。翌年、某国立大学に進学する機会を教授よりいただき、推薦入学をしました。核融合やプラズマを中心とした講義が多い専攻で核融合に関する学問を学べたことは幸せでした。これらの講義のなかで私の人生を変えた恩師に出会いました。恩師はエネルギーに関して多角的な面から問題に取り組む方でした。始めは核融合の将来性、経済性を題材に議論していました。毎回講義の後に私は先生と数時間、遅いときは暗くなるまで先生と議論をしていました。議論の対象は核融合から原子力、太陽エネルギー、政策など広範囲に広がり尽きることがありませんでした。講義が終了した後も先生の所に出かけ夜まで議論していました。恩師からは物事に対する考え方、特に全体見る見方を教えていただきました。

他大学から核融合の専門家を招いた集中講義はすばらしかったです。その際に某核融合研究機関のH教授と知り合い核融合施設を見学してきました。大変有意義な経験でした。

私の人生が決定的に変わったのは修士2年の5月初めでした。恩師の研究室に所属していた先輩に原子力関係の研究会があるから来ないかと誘われました。どのような研究会かよくわかりませんでしたが恩師の紹介ということなのでまず行ってみようと考え同じ研究室の先輩と参加しました。実はこの研究会は原子力と関係がなく、政府の産官学の連携によるベンチャーを起こすためのフォーラムでした。ちょっと面くらいましたが、このテーマも大いに興味があったので企業の方にまぎれて聴講しました。フォーラムの終わりに軽い会食会が催されました。その時にある企業を経営しておられるT氏と出会いました。その方はとても過激な持論を持っていまして、中国人が著作権等の国際ルールを守らないことに対し中国人殲滅論を提案していました。さすがに私はそれはおかしいと異論を唱えました。議論が進むにつれて話が私の研究テーマになり、たまたまその座に居合わせた某国立研究所で太陽電池の開発を行っていたM先生を紹介してもらいました。それからT氏とM先生を含め5人で飲みに行きました。この出会いが私の人生を変えました。実はT氏は恩師との知り合いで、だいぶ前に共に仕事をした仲だそうです。その後T氏から1週間に数度電話がかかるようになりました。T氏から最先端技術の情報と評価、政策の舞台裏、さまざまなことを教授していただきました。T氏は鋭い先見性を持った方で銀行国有化論を1年以上も前から唱えられていました。人脈も多く持っておりいろいろな方を紹介していただきました。そして私の悩みを聞いてくれました。当時悩んでいたのは進学問題でした。わがままな考え方ですが企業に就職をすると自由な発想や開発が制限せれることに抵抗があったため、就職する気がありませんでした。しかしこのまま博士課程に進学することも不安でした。不安の要因はいろいろありますが、一番大きかったのが研究としての将来性です。たびたび自分の研究テーマに自信が持てなく将来に不安を感じていました。また研究室を変えて新たに研究を始めることも不安でした。そんな不安を払いのけた方がT氏でした。T氏は私の研究テーマが価値の低いものであると断言しました。そのとおりです。しかし研究をしている本人にはそう思いたくない本心がありました。たとえ研究に将来性がなくてもかすかな希望を持ち研究するのもある種の美学と感じていました。きっといつか芽を出すだろうと。T氏は徹底的に私の研究を批判しました。思っていても言いたくないことはあります。しかし主観的な立場を捨て客観的に自己を分析することで本来の理念を追求する必要があります。私はこのことを学びました。最終的に研究室を変えて進学をすることにしました。その理由としてプラズマの限界性を強く感じたからです。プラズマの話になりますが、プラズマを用いて本来高温でなければ合成できないようなダイヤモンドなどの物質を合成することができます。また半導体産業ではエッチングに使われ身近なところでは照明器具にも使われています。プラズマの究極的な応用が核融合でしょう。このようにプラズマの応用用途は広いですが、最大の欠点は制御が難しいことです。プラズマ自体は低真空でガスに高電圧を印加することで容易に発生します。しかしプラズマを構成する電子、イオン、中性粒子を制御することは極めて難しいです。電場を印加して制御する方法がありますが、プラズマ自体が「カオス」であることから限界があります。プラズマは電子、イオン、電磁波、中性粒子の混在する混沌とした世界です。話が変わりますが現代の最先端技術の共通概念の一つとして微小化が挙げられます。例えば半導体産業では微細加工の技術でしのぎを削っています。プラズマを用いた成膜、エッチング技術はますます高度な技術を要求されるようになりました。このような厳しい要求を満たすにはより高度な技術が必要であります。今や世界の多くの優秀な研究者がこのような問題に取り組んでいます。私はこの競争で生きていく自信もなければ、知識もありません。何かプラズマに代わる新しい成膜法はないか模索していました。成膜技術の1つとして分子線エピタキシャル成長法(通称MBE)という成膜法があります。この方法は成膜速度を分子層レベルで制御することができます。友人の紹介ということもあり同じ大学の薄膜の研究を行っている某研究室を尋ねました。レベルが高くついていけそうもないと感じましたがとても魅力的でした。しかし最終的にはあきらめました。ちょうどその頃、朝日新聞に甲信越の某研究室で低温で薄膜の開発をしていることが紹介されました。低温でまともな膜ができることが不思議でした。そこで早速、甲信越のH教授を訪ねました。H教授は受け入れがたい研究をわかりやすく教えてくれました。気取らず要点を淡々と話すしぐさから、いい人だと思いました。頂いた論文を読んでこれは大変なことではないかと感じました。通常化学反応はアレニウスの定理から高温になるほど進行します。しかしこの研究室では低温になるほど反応が進行しています。実際10Kという極低温で反応がピークを迎えるという化学的に非常識な反応が起きています。この現象はトンネル反応によってもたらされることが論文に記載されています。そしてこの現象を利用して半導体薄膜を合成する試みを模索していました。分子層レベルで薄膜を制御することが可能であるこの研究は世界でどこも行われておらず、まさに開拓的な研究です。人と同じ道を歩むことに甘んじないH教授の意思に惹かれて甲信越のH研究室で研究を行うことにしました。

博士後期過程から研究室を変えるということは相当の覚悟が必要になります。まず研究テーマが変わるため研究テーマに関する専門知識から勉強しなければなりません。修士課程から研究を継続する人と異なり0からの出発です。また私の場合、専攻がプラズマ工学から物理化学に変わるため基礎学力もありませんでした。博士課程は通常の取得年数は3年です。私の場合4年あるいは5年…、と苦しい研究生活が予想できました。それでも研究室を変えることにしました。厳しい選択をしましたが後悔はしませんでした。

翌年の春から新しい研究生活を始めました。当時、地方の国立大学であるため研究施設、特に分析施設と図書館が充実していませんでした。分析装置は表面分析に必要な装置が限られていました。また前の研究室では論文を電子ジャーナルとして読むことができましたが、ほとんど利用できない状態であり蔵書数も少ないため論文は取り寄せる必要がありました。私は落胆しました。しかし幸いなことにこの大学の再編統合化が進んでおり、大学は研究施設を充実し始めていました。最新型の表面分析装置が数多く導入され、電子ジャーナルも読むことができるようなりました。大変幸運なことでした。また幸いなことに某H研究室では国と企業から研究資金を提供され、研究資金が豊富にあるため予算の問題は全くありませんでした。また私は某K大学から来た優秀なポスドクの先輩がいたことも幸運でした。研究を行うことに関しては何の問題もなく、充実した環境で研究を行うことができました。

研究内容は極低温(10K)における半導体薄膜の合成法の開発でした。先輩がすでに研究にとりかかっていたため、私は研究の補助をしながら装置の使い方を覚えていきました。大変すばらしい装置でタッチパネルでガスの流量制御が可能でした。H教授はお金がないほうが良い実験ができると口癖のように言われていますが、例外もあると思いました。実験は土日を除いてほぼ連日行いました。データーは連日蓄積され研究が進み順調に進展していきました。幸いなことに研究を始めて1年間で国内外の学会に3回発表することができました。

順調な研究生活に暗雲がただよい始めたのは12月のことでした。助教授と実験に取り組みに対して意見が割れました。意見が割れること自体問題はありません。むしろ割れた方が良いことがあります。問題はその内容でした。詳細なことは述べられませんが私から見れば助教授の人間性を疑わざるえないもので全く納得がいきませんでした。それから対立の溝は深まり3月には一切実験をしなくなりました。人間関係で研究が停止することは私にとって辛く、また客観的に見れば大人気ない話ですが、我慢しながら研究しなければならないことに耐えられませんでした。最終的には助教授に研究から離れることを宣言しました。新たに研究を立ち上げるのでその研究に参加することを教授に勧められたことが私にとって救いでした。確かに私にも非がありました。もっと寛容な人間でしたら研究は続いていたかもしれません。そうすべきかもしれません。しかし自分の個性を否定してまで研究を行うことに私は疑問を持ちます。また研究がある個人の興味ための研究に成り下がったしまうことにも反感を覚えます。何ためにしんどい思いをいて研究を行うのかという疑問がわいてきたため諦めました。後悔はしていません。返って正しい選択をしたと思っています。今後は新装置ができるまで中休み状態が続きます。また1からやり直しと考えると暗くなりますが、基礎学力をつける良い機会であり、また低温工学の可能性を見つける期間だと考えています。博士号を何年でとるということにこだわりはありません。唯一の不安は4回生からの生活資金がなくなることです。悩んでもしかたがないので悩んでいませんが、博士号を取得するために留年しなければならない学生、あるいは博士号取得後無職の研究生にも最低必要な生活保障を国が保障してもらいたいものです。



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